全般私的縄張考

見付に守られた本谷道

本谷は見付谷とも呼ばれ、大手道として城内道の基軸を成しています。しかし、近年の城郭論議でこの道が取りあげられる事はほとんどなく、関心が遠のいてしまっているようにも見えます。

しかしこの道は大手道と伝わる重要な道であり、無関心のままで良いはずはありません。
道沿いには多くの石垣が積まれており、往来を見張るかのように多数の郭が連なっています。また、伝的場の近くまで登ると、自然地形による大きな切岸にぶつかり、横矢がかかる形に道が折れ曲がっています。全域を通じて道筋の往来を睨むような縄張りになっており、大手道の名にふさわしい強固防御が施されています。

ちなみに、故田中政三氏は本谷道を「この筋はふもとから山頂まで階段状に七十余段、石がき積みの曲輪 が構築されて、城の正面を守るだけに、鉄ぺきの備えである」と評しており、当方もこれに同意するところです。
本谷道は城内道の基軸として、大手道の伝承にふさわしい防御力を備えた道であるといえます。しかしなぜこの道から関心が遠のいたのか? 自分なりにその訳を考えてみました。

  • 「伽藍転用論」の定着により、本谷道が登城道ではなく寺院(中世観音寺)の参道に取り付く道として捉えられるようになった。
  • 平成期の発掘調査の結果、本谷道が大手階段に繋がっていない事が判明した。これにより本谷道が本丸に至る幹線(大手道)では無いのではないか?との見解が浮上し、重要性が低下した。
  • 近年、道筋に竹が生い茂り、簡単には立ち入れなくなってしまった。

他にもいろいろあると思いますが、道が藪で塞がっていてそこに何があるのかわからない状態では、話の始めようがありません。そこでさしあたり、今回の整備で姿を現した「本谷見付」の様子をご覧ください。この見付は、本丸エリアの下に位置するお花井戸郭の手前にあります。以前は深い竹藪に覆われ、近づくことさえできませんでした。

見付の正面

斜め上から。東側ルートは整備前

西側側面

最初の写真は見付を正面から見上げたものです。門で塞がれてそうな場所に線を入れてみました。敵方にとってここは、突破が困難な関門のように見えます。
いま目にする事ができるほとんどの縄張図では、この遺構を石垣群として示しているだけで、見付とは記していません。ただし川並区有文書の絵図では、この付近に見付の表記が見られます。
見付石垣の西側斜面には竪堀のようなものも見られます、また石垣の後方にはしっかり削平された広場があり、その上にお花井戸郭、さらにその上に伝三ノ丸、そしてその上に伝本丸があります。

この見付の存在を指摘する人は皆無であり、縄張の解説記事等でも言及された形跡は見られません。しかし私の目こはこの見付が重要な防御施設のように見えます。専門家や山城フアンの方々にも見ていただきご意見を伺いたいところです。

* 文化財保護協会発行、紀要13-近江観音寺城の存在形態では、古絵図に示された「大門」が「本谷見付」の名で紹介されているが、ここで取り上げた「本谷見付」はこれとは異なる。

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