全般私的縄張考

伽藍転用説の反動|赤坂道は参道か?

観音寺城はお寺を作り変える事によって築かれたという、「伽藍転用説」の定着により、寺院跡と城跡の切り分けが盛んに行われるようになりました。

今もセミナーなどで、伝後藤邸跡は僧房跡、本谷道は旧参道に入るための幹線、赤坂道は参道、というような解説が盛んに行なわれています。
ベクトルがお寺にの方向に向きすぎていて、山城ファンをがっかりさせるのではないか?と思ったりもしますが、整備作業中に目にする現場の印象とも一致しており、おおむね同できます。

しかし、「赤坂道は登城道では無く参道である」という解説には違和感を覚えます。

当方では以下の理由により、改修により一帯が城域化した頃には、他の道と同様に登城道に転用れ、城内の往来に利用されていたと考えています。もし城内道に転用されていたのであれば、お城の遺構として捉えるべきだと思います。

  • 大正・昭和の初期のものと思われる図表には、表坂(伝追手道)付近から本谷を超えて赤坂道に通じる道が描かれている。ちょうど赤坂見附、もしくは林道駐車場あたりで赤坂道に接続されている。
  • 本谷には御幸橋という名の橋が架かっており、上記の表坂付近から赤坂道に伸びる道はこの橋を通って本谷を超えていた。
    この御幸橋は天文16年(1547)に崩落し、13人が死亡したという記録が残っている。この死者数からして結構大きな橋のようである。またこの事故は、渡り初めの時に起こったのではないか?と付記されている。
    この記録は、天文期に表坂付近と赤坂道とを結ぶルートの整備が行われていた事を示しているが、もし赤坂道が登城道として利用されていなかったとしたら、このような整備は行われなかったはすである。
    表坂(伝追手道)付近と赤坂道を結ぶ旧道
    御幸橋付近にある堰堤
    東側斜面との接続部
    昭和54年度に築はれたこの堰堤が、本谷道が悪路であった事を物語っている。2007年10月20日撮影
  • 観音寺城には多くの登城道があり、赤坂道はそれほど重要でなかったのかも知れない。しかし谷水で通行不能にならず、馬でも登れような道でであれば、本谷道のバイパス道として有意な有意なものであるように思える。
  • 赤坂道が登り着く現観音正寺付近には、上御用邸あったとされている。この施設への物資の搬入や往来のための幹線として、赤坂道が利用されていたのではないか?
  • 道沿いに積まれている赤坂見附の石垣は江戸期のものではなく、観音寺城が現役の頃に積まれたもののようにしか見えない。もし観音寺改修の際に積まれたものであるならば、赤坂道は城内道に転用さたといえるのではないか?

ここで取り上げた天文期の記録等から、当時、赤坂道は城通として使われていた形跡があり、赤坂道は参道を改修した登城道とするのが妥当なところなのではないでしょうか。

画期的とも言える、伽藍転用説の定着以来、不可解な縄張りの謎解きがだいぶ進んできましたが、その反動により城跡遺構の一角がお寺の方に転がり落ちているようにも思えます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です