観音寺城|本谷プロジェクトのホームページ 

カバー写真:2022年11月7日撮影の大石垣 記録写真より

観音寺城|近江守護・佐々木六角氏の居城

観音寺城は標高433mの繖山(きぬがさやま)に築かれ、南斜面一帯に無数の郭が置かれています。郭の数は1,000以上とも言われ、その規模の大きさもさることながら、安土城に先駆けて築かれた石垣造りの城であり、階段や暗渠も石材が多用されている事にも驚かされます。また随所に見られる政治拠点・生活空間としての利便性を追い求めた独特の縄張りも、他の戦国期の山城には見られない観音寺城の特徴とされています。
観音寺城の築城時期は定かではありませんが、南北朝時に佐々木氏頼が、「観音寺ノ城郭」に布陣したという事が「太平記」に記されており、この頃すでに城郭が存在していたことがわかります。その後、応仁・文明の乱のさなか、この観音寺城では3度の攻防戦があり、しだいに強固な城郭に進化していったと考えられますが、観音寺城が今のような石垣造りの大規模なものに姿を変えたのいはもう少し後の事のようです。(史跡観音寺城跡の調査と整備 – 滋賀県 から引用・加筆)

観音寺城の模型:滋賀県立安土城考古博物館所蔵
画像はWikipedia 観音寺城 から引用

観音寺城の縄張図: 観音寺城と佐々木六角氏 – No1
(観音寺城跡を守る会 1977年11月)から引用

(伝)御屋形跡の高石垣
(伝)後藤邸下段の石垣

大永3年(1523年)に六角定頼が観音寺城に家臣を集めるための城割を命じ、これを機に観音寺城に当主や家臣達の邸群が形成されたと考えられています。この定頼の命による大改修により観音寺城は、戦闘に特化した城から政治的な色合いの濃い城に姿を変えました。1530〜50年代の古文書には、石垣普請など観音寺城の改修に関する記録が数多く残っており、この時期に土造りの城から石造りの城に姿を変えていったものと思われます。
実際に観音寺城跡内に立ち入ると巨石を積み上げ高石垣が随所に見られ、その豪華さに圧倒ます。安土城以前にこれほど石垣が多く使われている城は観音寺城以外には存在しません。また、城下に商人を集め楽市楽座が開かれたのも安土城i築城以前の事であり、安土城の築城の際にはこれらの観音寺城の先進性が手本にされたのではないでしょうか?
このように観音寺城は先進的な山城でしたが、弱点もありました。それはことあるごとに指摘される防衛力の弱さです。例えば、城域内に竪堀はほとんど無く虎口は一部を除いて単純な平虎口です。巨石を積み上げ高い石垣を作る高度な建造技術があるのなら、その技術を生かしてもう少し強固な虎口を造ればよさそうなものですが、そのような意図をうかがう事はできません。さらに分譲住宅地のような碁盤目状の郭配置など、戦国期の山城ではあり得ない無防備な造りも見られ、寺院の遺構との混在が指摘されています。この事が観音寺城跡の実態を不可解なものにしており、この寺院遺構と城跡遺構との切り分けが急務であるといえます。(史跡観音寺城跡の調査と整備 – 滋賀県 から引用・加筆)

このように先進的な観音寺城ですが、織田信長の近江侵攻によってあっけなく落城してしまいます。永禄11年(1568)15代将軍足利義昭を擁した上洛戦で、観音寺城に布陣した六角勢は戦わずして逃走します。そして六角勢は、その後も抵抗を続けますが、元亀3年(1573)の鯰江城の戦いに敗れ、歴史の表部隊から姿を消します。

そして今、この観音寺城跡は国の文化財に指定され、日本五大山城の一つにも数えられています。ところがその遺構の大部分は山中に埋もれ、あたかもそれが幻であったかのように目の前から姿を消してしまっています。しかしそれは決して幻影ではなく、その実在に疑いの余地はありません。
何とか、この観音寺城を幻の世界から連れ戻したいものです。

南斜面を走る道筋と遺構

観音寺城では繖山の南斜面一帯に無数の郭が置かれ登城道や間道が数多く存在します。また、山腹を横断するように景清道が通っており、その道沿いには武家屋敷跡・寺院の坊跡と伝わる郭群が並んでいます。そして数ある登城道の多くはこの景清道を横切っており、この道の散策は登城ルートの全体像の把握にも役立ちます。

背景画像:滋賀県教育員会の実測図に村田修三氏が補筆。 五個荘町史から引用。(青丸)は要チェックスポット

景清道
山腹を横断するように東西に走る道。城郭ができる以前から通っていた。数ある登城道の多くがこの道を横切っている。
本谷道(見付谷道)
大手と伝わる谷沿いの幹線路。見付谷という別名を裏付けるかのように往来を監視する施設が連なり、鉄壁の防御を感じさせる。中腹上部に位置する伝的場から先は豪華な石造り道が姿を現す。道の主軸は家臣の屋敷が集まる山頂方向に延びている。この道は途中で幾本もの道に分岐しており、お花井戸郭付近では枝分かれした道が伝三ノ丸を経由して本丸に繋がっている。道沿いには伝進藤邸跡と伝後藤邸跡があり、この一角にみられる碁盤目状の縄張りは観音寺城にしか見られない独特のものとされている。

表坂道
本谷の西に隣接する尾根道であり、追手道と伝承されている。山裾の伝御屋形跡と、中心部とされる(伝)池田・落合・平井・本丸を結んでいる。道沿いには、城内で最大級の高さを有する大石垣がある。道沿いに点在する施設は登城道の防御というよりも、箕作山との間を走る中山道への睨みを目的としたものに見える。
赤坂道
観音正寺の参道。観音正寺の境内につながる道であり、登城道では無いとされているが、よく整備されており現在では観音寺城域に入るためのメインルートとして使われている。道沿いには赤坂見付などの石垣が見られ、登城道としての風格を併せ持つている。
お茶子谷道
赤坂道の東に隣接し、山裾と山上のお茶子地蔵あたりを結ぶ道。この道沿いにお茶子姫の屋敷があったといわれている。
源三谷道
城域主要部の東端に位置する登城道。山裾から山上まで石段の道が続き、伝目加田丸を経て伝布施淡路丸の手前で川並道に合流する。
縦横に走る多くの間道
観音寺城には他に例を見ないほど多くの幹線が通っていますが、さらに幾つもの間道によってそれらが補完されています。例えば的場付近では、本谷から分岐する3本の間道が山上に向かって延びており、碁盤目状の郭配置と共に、観音寺城の特徴とされています。
実際に城域を探索してみるとその間道の多さには驚かされます。それらは観音寺っ城に住む人々の生活道路として使われていたのかも知れません。
城内道を結ぶ帯状の郭
観音寺城には、細長く帯状に配置された郭が幾つもあり、実際に歩いてみるとそれらが通路として機能している事がわかります。例えばその一つである「伝三ノ丸」は防御施設というよりも、本丸への通路の途中に設けられた踊り場ように見えます。また、「お花井戸郭」「扉石郭」「伝的場」では、複数の道が郭を横切っていたり、郭を起点に間道が伸びていたりしており、郭内でそれらの道を任意に選ぶ事により、ルートや行先を変える事ができます。

本谷道を紐解く

本谷道と道沿いの様子
南斜面には本谷と呼ばれる深い谷があります。この谷沿いを上る道を本谷道と呼び、この道が大手道であると伝えられています。この本谷は見付谷とも呼ばれ、道沿いには侵入者を見張り、向かえ打つための施設ではないか?と思わせるような削平地が連なっています。
またこの道を観音正寺直下あたりまで上ったところには、進藤氏および後藤氏の屋敷跡と伝わる一角があります。このエリアでは、郭と通路が碁盤の目のようにに整然と並んでおり城跡としては不可解な造りになっています。このためこの一角は寺院跡である可能性も指摘されています。

大手道と伝わる本谷道
本谷道は江戸期に描かれた絵図や近年の縄張図でも太く描かれ、本谷道が登城のための幹線である事がわかります。そしてこの事は大手道としての伝承を裏付けると共に、城内道の基軸としての役割を今に伝えています。
しかしどの図を見てもこの道の主軸は本丸(本城)ではなく、家臣の屋敷が建ち並ぶ山頂方向に向かって延びているように見えます。通常は本丸に続く幹線路が大手道とされ、家臣の屋敷に向かう道が大手道と伝わる事はありません。しかしこの城が六角家と家臣を集結してワンチームにまとめあげるための城、すなわち多くの有力家臣達が常駐する政治拠点としての側面を考え併せると、それほど不自然な事ではないのかもしれません。

観音寺城跡図:川並区有文書所収

江戸期のものとされているが、誰が何のために描いたものなのかは不明。絵師ではなく素人の作のように見える。本谷道(見付谷)が幹線路として描かれているが、図中に本谷の名は見当たらない。一方で、中山道からこの道への分岐点には「大手筋井繩手八七て□□」と付記されている。
伝御屋形跡付近には比較的新しい時代のものとされる天満宮が描かれており、この付近から伝池田丸に延びる表坂道(伝追手道)は見当たらない。ここに描かれている本谷道は、山上の武家屋敷群に向かって延びている。道沿いの後藤邸を超えたあたりに見付の記載がある。この見付は現存しており当サイトでは本谷見付と称している。さらにその少し上に、西方向に分岐する道が描かれており、お花井戸郭と伝お三ノ丸を経て本丸(本城)につながっているように見える。この図には、明らかに誤りと思われる箇所が散見されるが情報量は多い。

佐々木古城跡繖山観音山画図:Wikipedia より引用

絵師によるものと思われる整った絵図。江戸期の作とされており、この図のバリエーションらしきものを目にする機会も多い。この図でも本谷道(見付谷)が幹線路として描かれているように見えるが、本谷の名は見当たらない。川並区有文書所収の図よりもやや赤坂道(現観音正寺参道)が強調されており、これが幹線のようにも見えるが現観音正寺付近で終わっている。また、本谷道から本丸に分岐する道の幅が広く描かれており、本谷道が本丸に登城するための幹線(お花井戸郭と伝お三ノ丸を経て)のようにも見える。しかしこの本谷道の正面(直進方向)は山頂に向かって延びている。伝池田丸に直行する伝追手道は細い線で描かれており幹線には見えない。伝御屋形跡や天満宮は見当たらない。なおこの「佐々木古城跡繖山観音山画図」にはいくつかのバリエーションが存在し、同名のこちらの絵図 では、しっかりした太い線で追手道が描かれている。

観音寺城跡図:蒲生郡志-巻二の綴じ込み図表より

大正4年の測量結果に基づいた図。一見して情報量が少なく精緻なものには見えない。本谷道は赤坂道よりも薄く描かれているが、城道としてはこの道が幹線であることが見て取れる。伝御屋形跡や御屋形跡から伝池田丸に通じる伝追手道は描かれていないが、池田丸に通じるルートとして、本谷道から伝木村丸→扉石郭を直線的に横断する道が描かれている。(現場には確かにこの道の痕跡が残っている)また、伝的場付近から扉石郭の一角を経て、平井丸の埋門あたりに通じる道も描かれている。さらに本谷から花井戸郭と伝お三ノ丸を経て本丸に向かう道筋も描かれている。欠落が多く精緻なものではないが、本谷主要部についてはおむね的を得ているように思える。進藤・後藤の位置は実際よりも少し南東側にずれているが、全般的な郭の配置と名付けは現在使用されている資料とほぼ一致している。

観音寺城跡図(クリックで拡大)

これは、観音正寺の表参道に通じる林道の料金所で配られている地図。最近の図には見られない古道が描かれている一方、林道が描かれていない事から、古い資料からの引用のように見える。しかし昭和期後半に比定されたとされる伝御屋形跡が見られ、以後の更新も伺える。木村邸・扉石・お花井戸の各郭は省かれている。今では藪に埋もれている古道と散策路との区別が無く、この図の作成時点ではどの道も通行できたのだろう。大手道と追手ルート(御屋形→池田→本丸)の間を結ぶ複数の間道が描かれており、そのうちの的場付近に下りる3本は、現在でもその道筋を辿る事ができる。また、石段の道が区別されている。この図では、藪に埋もれた古道が混在しているため、散策マップとしてはやや不向き。なおこの縄張図では本谷道を大手道と明記している。

雑記:備忘録として

扉石郭の扉石
扉石郭には、扉のような形をした巨石が横たわっている。その重量からして扉には使えそうにないがこれがこの郭の名の所以である。吉田勝著、近江観音寺城には、もともとこの扉石は2個あったが、その1つが馬場郭に運ばれ、現在ある「佐々木城址」の標石として使われていると記されている。
観音寺城の本谷に架けた御幸橋の墜落 (原文の表現を尊重しつつ要約)
観音寺城中に御幸橋という名の橋を架けた。天文16年(1547)にその橋が墜落して、13人の死者が出た。長命寺念佛帳によると、同年7月15日の供養中に、「為観音寺城幸はし度十三人 南無阿弥陀仏 」と記されている。簡潔な文書なので詳細は不明だが、美幸橋が成功して渡り始め式を執行した時に、橋の墜落により渡御人が墜死したという事のようである。(引用:蒲生郡志巻二 632ページ)

本谷道から本丸へのルート

古い時代の絵図などでは、大手道としての伝承を裏付けるかのように本谷道が城内を走る幹線路として描かれています。そしてこの道は本谷見付(仮称)あたりで西に分岐して本丸に達しています。しかし現在、この重要な本谷道は忘れ去られ、その存在自体が幻と化しつつあります。その第一の原因は道筋の藪化であり、立ち入れない場所に対してはどうしても疎遠になりがちです。しかし多くの絵図にあるように、本谷道は(分岐路ではありますが)本丸に通じており、藪に埋もれていたとしても城内道の主役であることに変わりありません。そこで平成22年度、お花井戸郭から伝三ノ丸に方向に延びる道が大手階段に繋がっているのではないか?という推定を基に発掘調査が行われました。
その結果、お花井戸郭と大手階段とは直接繋がっていない事が判明しました。しかし伝三ノ丸までは道が繋がっており、本谷道と本丸エリアの一角が、絵図にあるようなルートで結ばれている事がわかります。写真は、お花井戸郭からこのルートを見上げたものと伝三ノ丸から見下ろしたものです。斜面の上部に石垣が写っています。発掘調査によって、大手階段へのルートを遮断しているこの石垣が見つかり、お花井戸郭と大手階段は直接つながっていない事がわかりました。しかし現場を確認すると、お花井戸郭からの登り口付近には石段が残っており、この場所がただの斜面でな無い事がわかります。古い絵図や縄張り図に記されている大手道から本丸エリアへの接続路は、この小谷2(以下の図表を参照)を登る道なのではないでしょうか。

※ ルート図の背景画像は、観音寺城跡ブックレット から引用。以下は当時の発掘現場の様子。

大手道としての伝承が途絶えつつある本谷道

江戸期の絵図や明治・大正期の調査による蒲生郡志の縄張り図、昭和中期の資料等では、大手道と呼ぶにふさわしい幹線として大手道が描かれています。しかし今では本谷道が幹線路として取り上げれれる機会は激減し、それどころか、本谷道の存在自体が忘れ去られ去られつつあるように思えます。実際に本谷道を歩いてみると、大手道と呼ぶにふさわしい壮大かつ豪華絢爛な遺構を目に飛び込んできます。大手道という呼び名自体はは城郭現役期のものではなく、後世の伝承によって生まれたものとされていますので、その名付け自体はさほど重要ではありません。しかし観音寺城縄張りの基軸であることに疑いの余地はありません。何とかこの本谷筋の姿を白日の下に晒し、現・後世人々に観音寺城の本来の姿を伝えたいものです。

本谷筋の主要部とその周辺の道筋の現状

本谷筋の主要部については、道や郭を覆っていた雑木と竹の伐採が進み、往時の面影を取り戻しつつあります。
図中の仮整備とされている道については、ほぼ通行可能ですが夏場は草木が生い茂るため、藪漕ぎが必要になります。また足元が悪いため、安易な立入はお奨めできません。

 

姿を現した本谷遺構

本谷沿いには、後藤・進藤エリアの碁盤目状の郭配置や豪華な石垣など、観音寺城を特徴つける貴重な遺構が数多く残されています。これらは本谷遺構と呼ばれ重要視されてきましたが深い藪に覆われ立ち入る事は困難でした。しかし現在では木竹の伐採が進み、要所を見渡せるようになっています。

道沿いの様子。(伝)的場/後藤邸/本谷見付/お花井戸郭あたり。撮影:2023年1月1日/4月3日

写真は冬場に撮影したものです。足元が悪く、夏場は草木が生い茂るため安易な立入はお奨めできません。また、観音寺城跡は国指定の史跡であり、そのエリアの多くは寺院が保有する私有地ですので、立ち入りの際には遺構や構造物を棄損する事が無いようにご注意ください。

 

田中政三著、近江源氏一巻 まぼろしの観音寺城より

観音寺城跡の調査・保全で多大な貢献をされた故田中政三氏の著作「まぼろしの観音寺城」から、本谷筋の紹介文を原文のまま転載。

|本谷筋|大手口の東、石寺の中央にある現在の観音正寺表参道 上り口から、当山中央の本谷を登り、本丸及び山上に達する道筋であ る。下には面積約一万五千平方メートルと推定する犬追馬場跡や下御 用屋敷跡、また数多くの武家屋敷跡があり、その上に久保氏、三上氏、 山中氏、後藤氏、進藤氏、 お花井戸丸、三の丸のほか百に達する曲輪 が山上へと続き、的場と呼ぶ弓の練習場もある。
この筋はふもとから山頂まで階段状に七十余段、石がき積みの曲輪 が構築されて、城の正面を守るだけに、鉄ぺきの備えである。中でも 後藤曲輪はこの筋の最も要所を占め、城内最大の規模をもち、大石塁 に囲まれた大曲輪は三段階に分けて構築された堂々たるもの。この一 区域のみでも立派に一城形成の壮観さを誇示している。

本谷プロジェクトの活動について

観音寺城の大手道と伝わる本谷の道沿いには遺構が集中しており、ようやくその一端を目にする事ができるようになりました。しかし草木が刈り取られた広々とした空間も、夏場を迎えると草木が生い茂り、あっというまに以前のような藪に戻ってしまいます。このため草刈りなどの維持管理作業が欠かせません。本谷プロジェクトではこの環境維持への取り組みを、限られた有志による一過的性のもので終らせぬよう、持続可能なスキームによるものに発展させていきたいと考えています。

もしこの活動に興味をお持ちの方がおられましたら、yukio@jono.jpまでご一報ください。

 
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チラシ:後藤賢豊とその邸跡

問い合わせ先: yukio@jono.jp