全般私的縄張考

お寺の伽藍をお城に転用

「観音寺城は防御が不完全な軍事的に脆弱な山城」であるといわれています。

確かにその通りかも知れせんが、観音寺城びいきの私には、戦う城としての側面にも目を見を向け、単なる手抜きの城で無いことを皆さんにお伝えしたいところです。そこでまず、なぜこのような城になったのか?という言い訳から始めたいと思います。
観音寺城では、尾根から見下ろせる山腹に多数の郭が配置されており、城としては不可解な脆弱な構造であるといわれています。

なぜこのような構造なのでしょうか?。その理由は「山岳寺院の伽藍を転用した」からです。

近年では多くの専門家がこの説をを支持し、観音寺城はそれまでこの場所にあった観音寺(現観音正寺)の跡地を利用して城を築いたため、このような郭配置になったのだと説いています。
しかし、30年くらい前までは今と異なり、純粋に城郭としての要件だけを前提にして縄張りが語られていました。

1994年発行の近江の城友の会報第44号で、村田修三氏は、桧山兼治氏の「山岳寺院の伽藍転用説」を受け、これを画期的な説と評価し、次のように述べています。 以下、村田修三氏執筆の記事より抜粋…

なるほどそういう伽藍配置は、伊吹山の弥高寺や湖東三山など近江の多数の山寺を調査して確認できたし、全国的にもわかってきている。観音寺城の場合は城のくせになぜこうなのかと悩んでいたからいろんな議論を重ねてきたが、寺だと思ってみたら何も悩む事は無い、というわけである。ただこの見解だけで広い地域内の様々な側面を説明し切れるものではなく、六角氏の築城によるものがかなりの比重をしめることはいうまでもない。 …抜粋終り

要するにこ、元々ここは寺なので山腹に郭があるのは当たり前というお話です。

この時期より前の田中政三氏や吉田勝氏の解説では、寺院との関係には触れられておらず、この頃から、「山岳寺院の伽藍転用説」が定着し始めたように思えます。

そもそも、六角定頼が観音寺城を改修しようとしたとき、「お寺さんにに退いてもらって、その跡を利用したら、手っ取り早く家臣の邸が造れると考えたはずなので、お寺の造成地が郭に転用されるのは当然の事です。

という事で今の観音寺城跡には、寺院の遺構と城の遺構が混在しているとみられ、縄張りの分析にはその切り分けが不可欠です。しかし最近、その作業が手薄になっているようにも見えます。また時系列的な考察も十分で無いように思えます。公的な報告書等ではよく、「更なる調査が必要」といったような言葉で締めくくられますが、その足先は安土城に方に向いているようにも見えます。

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