全般

侮れない実力を備えた拘りの城跡図

表参道(石寺側)の料金所で配布されている城跡図は、一見ザックリしたもののように見えます。確かに道筋が正確に描かれているわけではありませんが、今では埋もれてしまっている古道も描かれており、観音寺城が機能していた時代の姿を知るうえでたいへん役立ちます。
約20年前、観音寺城跡に通い始めた頃に初めて目にしたのがこの城跡図です。当時は石寺楽市会館の入り口にも置いてありました。
当時この図を見て、観音寺城には幹線以外に多くの道がある事を知りました。20年経った今でもこの図から古道の存在に気付く事もあります。当方にとって古道を確認するためのバイブルのような存在でした。

この図では特に、朱で示した図中の①~⑤の箇所に、古道に対する拘りが見られます。

表参道料金所で配られている観音寺城跡図

全般的的な印象として、郭よりも道筋に重点が置かれている。古道に関する情報量は多いものの、郭についてはずいぶん簡略化されている。石段が施設されている道とそうでない道が区別されている。ただし石段が続く源三谷が、石段の無い道として描かれている。林道は描かれていない。原図の出自は不明。山裾の御屋形跡の名が入っているのでこの図自体はさほど古いものでは無さそうである。

  1. 本谷道に大手道の名が併記されている;本谷道は大手に相当する幹線
    他の城跡図では見られない「大手道」の記載がある。この名が「本谷道・見附谷」と同じ様に定着していたかどうかは不明。また、本谷が木谷と記されているがこれは誤植とみられる。
    併せて 本谷道は大手道か? をご覧ください。
  2. 本谷道から分岐している多くの道が描かれている;本谷道は追手道側と密に結ばれている
    ②aは本谷から扉石の郭に通じる3本の道。木竹の伐採後、この3本の実在を確認済。
    ②bは本谷から木村丸に通じる2本の道。この2本の実在を確認済。木村丸は本谷道沿いにあり、正面は伝追手道側ではなく本谷道側である事が分かる。
    ②cは他の殆どの城跡図には描かれていない謎の石段道が描かれている。この道が本谷道とどのようにつながっているのかは未確認。
    さらに他の古絵図や蒲生郡志図に描かれている本谷道から三ノ丸付近に分岐する道が、この図にも描かれている。
  3. 観音正寺直下の散策路が省かれている;その昔、観音正寺の石垣の前に道は無かった
    現在、観音正寺から本丸方面に向かう場合、大仏さんのあたりから既存の散策路に下りて、石垣の前を西に進むコースが一般的である。しかし、この図ではその石垣の前を横に走る道が描かれておらず、むしろ縦に走る道が強調されている。この石垣の前の道は、近世に行われた観音正寺の改修の際に設けられたものであり、城として機能していた時代には存在しなかったと考えられる(持論)。この図では近世に生まれた道を省く事で、往時の道筋をより正しく伝えようとする意図が見られる。全般的にこの図では、古道の様子を伝える事にに重点が置かれている。
  4. 中世観音寺跡との仮説がある、伝三井丸への上り道が描かれている;中世観音寺への参道か?
    山裾に移転する前、観音(正)寺は伝三井丸あたりにあったという説があります。この説では、伝後藤邸東側通路が中世観音寺の参道として伝三井丸と繋がっていたという推定が根拠の一つになっています。なるほど、この図を見ると、伝三井丸まで繋ながっていた伝後藤邸東側通路が、観音正寺の拡張により2つに分断されてしまったように見えます。
  5. もう一つの大手ルート;中山道から分岐・直行するルート以外にも本谷に通じる幹線があった。
    ほとんどの古絵図では、現在の参道からから本谷に分岐するルートが幹線として描かれていますが、この図でむしろ本谷そのものが山裾に到達する位置(片原町?)から、本谷に沿って上るルートが幹線として描かれています。これは故田中政三氏の主張と一致します。現在もこのルートにはしっかりした道が残っており、この道が主要な登城道であったとしても不思議ではありません。

この観音寺城跡図では、古道に対する情報が的確に提供されており、城跡の本来の姿を知るには有用です。特に図中の②bに示された木村丸・扉石郭との間の道は他には見られ無い唯一無二の情報として、当方の探索の手がかりにもなりました。この図はこの城の縄張論議にも役立つはずです。しかし現状を忠実に反映したものではありませんので、ルートマップとしては不向きです。
 この図は本来の縄張を確認しながら散策を楽しむのに、うってつけの城跡図であるといえます。

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