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本谷道は大手道か?

以前良く出向いた講座での解説や伝え聞いた話から、本谷道が大手道として伝承された道である事に疑いを持つ事はありませんでした。しかし、いま目にすることができるほとんどの縄張図や古絵図では、一部の例外を除いて本谷道が大手道であるとは示されていません。

そこで、本谷道を伝大手道と言い切って良いものか?という疑問がわいてきました。

城郭に対する一般的な解説を引用すると、「大手」とは城の正面を意味し、大手口・大手門と、城の中心とを結ぶ道であるとの事です。そこで観音j城の古絵図を見てみると本谷道は大手の名に相応しく、城郭エリアの正面に位置し、城域の中心部を山上に向かって向かって延びています。さらに一部の絵図では、中山道から城域への分岐点に「大手筋井繩手八七て□□」との書かれており、その先にある本谷への分岐点には「大門」との記載があります。この大門は大手門に相当するものであったかもしれません。
この大門付近に遺構は残っていませんが、この場所には本谷道のルートを示す案内板が設置されており、これには本谷道が「旧本道」と表記されています。ちなみに村田修三氏はこの大門を本谷見附と称し、複眼図を作成されているそうです。

下の古絵図には中山道から観音寺城への分岐点に「大手筋井繩手八七て□□」と書かれており、その先にある本谷への入り口には、石垣の絵と共に大門の名が見られる。現在はこの大門の場所に「観音寺城旧本道」と書かれ、本谷の上り方向を指した案内板が設置されている。

また表参道側の林道料金所で画配布されているルートマップには、本谷道が「大手道」と明記されています。しかし、この図が何を基に作成されたのか?その出所がわからず、史実とも伝承とも判別できず、もしかすると作者の憶測なのかもしれません。

本谷に対して「大手道」の名が明記されている唯一の図


そもそも、大手門や大手道の概念は織豊期より前の時代には存在しなかったとされていますので、観音寺城の現役時代には大手道とは名付けられた道はなかったはずです。従い、もし本谷道という呼称が伝承されており本谷の遺構が大手道としての要件を満たしていたとしても、「大手道」ではなく「大手道相当」とすべきでしょう。
いずれにせよ、近世の概念をそれ以前の中世の城に当てはめるというのは無理があり、この名付けがさほど重要な事にも思えません。道の名前よりもむしろその用途や機能面に目を向けべきなのではないでしょうか?

「観音寺城の大手は本谷道」という伝え聞きや古図城にみられる、中山道かた分岐して南斜面正面の中央を山頂に延びる本谷道の姿から、これが大手に相当する道である事に間違いはなさそうです。しかし古絵図に図示された本谷道に「大手道」の名は記されておらず、道筋に「大手筋井繩手八七て□□」や「大門」との表記が見られるにとどまっています。また近年の縄張り図やルートマップでも「大手道」と明記されているのは当方が知る限り1つだけです。

結論して、本谷道は江戸期に使われ始めた「大手道」の呼称にに相応しい道ではあるが、本谷道が大手道と呼ばれていた明確な証は見つからず、むしろ「本谷道・見附谷」の名が定着していた事が伺えます。よって、本谷道は「伝大手道」よりもむしろ「大手道に相当する幹線として伝わる道」とした方が、史実に対してより正確であるといえます。

またこのような大手道に関する論議は、観音寺城よりもむしろ安土城で盛んに行われています。中でも滋賀県文化財保護協会 紀要 第20号 安土城の大手道は無かった-登城口と御成口 が参考になります。滋賀県文化財保護協会や滋賀県教育委員会では、現在大手道として直線的に延びている道は大手道では無く、天皇行幸の道(御成道)との見解のようです。以下にその冒頭部分を転載します。

安土城の大手道は無かった-登城口と御成口 「 1. はじめに」からの転載

繰り返し述べているとおり、安土城そのものとその時代の城郭には、彼らによって定義されて残された名称とそ の意味を知る手がかりは限りなく少ない。今我々が見開き し使用している語句の多くは、残されていないが故に、後の世に決められて用いられていた語の当てはめや、研究用語として位置づけられたものを利用している場合が多い。えてして、それらが知らぬ間に一人歩きし、またそれらを通信したことから始まる見誤りにより、さも同時代性の高いものとして認識されることがある。その結果として思わぬ方向に論が展開していく。
そのひとつの代表が安土城では、「安土城」と「安士山」(ここでは混乱がないように現代用語の「安土城」と表記する。)や「安土城下町」と「安土山下町」での違いであったり、石垣におけるありもしない安土城築城にかかわる 「穴太衆」や「穴太流」存在 の幻想、古絵図からや伝承から位置づけられた三の丸や羽 柴秀吉邸や前田利家邸、徳川家康邸といった存在や、「大 主」と「天守」の意味の違いなどであったりするがここでは、その一つの例として、安土城における 「大手 門」や「大手道】についての理解を考えてみたい。
結論から言うと、安土城では私たちが一般的に使用している『大手門」・「大手道」の名称は歴史的には無かったと云わざる をえない。これまでも、提唱しているとおり「学術研究的 には、「伝大手道跡」とすべきであろう。これらはあくまでも近世~近代に作られた伝承であり、史実ではないこと は記録にあたると直ぐに理解が出来る。だとするならば、その先入観的位置づけからスタートすると安土城の理解を見誤る事になるかもしれない。
これから述べるように、大手道・大手門は、織豊期以降の近世に確立した城郭施設の 最終形態の名称としての概念であり、 安土城にそれが適用できるかどうかは無味な考えである。 必要なことは安土城に込められた織田信長の考え方を理解すること、すなわち城の正面性とそこからくる道の理解であると考える。
本では、この様な立場に立ち、今ある資料から何が読み取れるのかということを考え、安土城の記録に残された道と記録に残されなかった道の意義について発掘調査成果を基にして検討してみたい。したがって、ここでの論では、曖昧な後世に出来、使用された名称はなるべく利用せ ず、位や形、記号・数字で表現していくこととする。

さらに「 2. 大手門とは・大手道とは」に続きますので、ぜひ 土城の大手道は無かった-登城口と御成口をご覧ください。調査が進んでいる安土城ですら混迷が収まっておらず、観音寺城の縄張りの謎が解き明かされるまでには、まだだだいぶ時間がかかりそうです。

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